1クールと言う本を読みました。
1クールとはタイトルだけ見ても何の本か全然わからないなと思って読み始めました。
今行行流と、行くるわどう違うのかそんな事は書いてなかったんですけども、ちょっと考えるとこでした。
くる中で昨日読んだところになったのですけれども、紅事と、食わないことは違うと言うことが書かれてありました。
食わないことと言うのは自ら選んで食べたいと言うこと。
間断食だったりとか粗食を自分の意思で行うと言うことです。
一方で、食えないと言うのは食べたいクテも食べるものがなくて食べられないと言うこと、になります。
まぁどちらが良いかと言うと、やっぱり1体に与える影響としては、食わないの方はむしろ健康的になると言う意味で使われることが多いです。
断食や粗食は行うと健康になるとよく言われております。
国食えない食べれないって言うと最終的には歌詞っていうことになるんですけれども、食べれない食えないと言う事は健康と言うよりかは動く元気がどんどんどんどんなくなっていく行為になります。
今やってる事は同じことになるんですけれどもどうしてその効果が違うかと言うと、やはりその4人の気持ちの持ちようだと思います。
食わないと言うのは自ら選ぶ、主体的能動的な公園になっています。
自分で選んでへ自分がやっていると言う行為です。
で逆に食えないと言うのは自分が選んでくれてないと言うのではなくて、受動的な行為外部要因によってそうなってしまっていると言う状態にあります。
してそういった場合にやはり外部要因によってもたらされている状態と言うのは何かあったときに他の人の声下の者の狭外部の声にしていくと問題を外部に持っていってしまうと。
自分の気持ちが外に外に行くようになります。
こうなっているのは彼の声とかこうなっているのはなんとかの声とかになります。
でやはり外部のほうに気持ちを持っていくってた昔になってしまうと、気持ちもそのつよいものが自分から生まれてこないようになっていきます。
そうですねそれで自分から行っている食わないと言う行為。
自分からやっている主体的能動的な行為と言うのは、自分が選んでやっている行為と言うことで自分の中から始まっている動きになってます。
自分の中から動くので例えばそれがうまくいかなかったとしてももう少しうまくいかなかったとしても、もうやり通したりとか後は客観的に見れる場合だったらお前軌道修正もできると思います。
今何よりか人から与えられたものでなく自分が選んだものを自分の意思でやっているものと言うのはあのそれをやり続けると力が出ますし自分に意思というかつよいものを持つことができます。
自分の軸を持った人間になろうと思うと、自分で選んで自分が決めてやると言うことをこれを積み重ねていくことが必ず必要になってくる。
1節の話をしていたのですけれども、侍節は、死ぬことと言う事にあるんですけども、はれ死ぬことっていうのは節が自分で死ぬことを選んだ6節と言うのではなくて曲波の人から与えられることではなくて自分で選べと自分の意思でやると言う事がの意味としてあるのではないかと言われています。
死ぬことも生きることも、生きているから生きてるんじゃなくて自分の意思で生きていると毎日1日1日を生きていると死ぬのもなんかフラフラと死ぬんじゃなくて勝手に死ぬのではなくて、自分の死ぬ時期死ぬ時も自分で決めると何か別のものに死ぬことも選ばせないと言う気持ちいいですね気持ちが入っています。
ですので簡単に死ぬようなことがありそうですけどもう縁と言ったら斬り合い手手ただ死ぬところを自分で選ぶいつ死ぬか命の使い道を考えると言うことで節はなんだろ例えば溝に落ちてころっと死んでしまったとかそういったのは武士の死に方ではないそういうところではやっぱり充分注意をして体に強死ぬか何に命をかけるかと言うところをはっきりと自分の気持ちで自分の意思で持っていると言うところが武士なのかなと思いました。